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2008-04-19 Sat 09:13
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今日は、、、岡山に行こうかなぁ。。。
さて、もう一つの消極的な考古学。 しばしば「この土器が、OOされた最初の土器です」とか言う人がいます。 また「OOの影響でOOが成立した」という発言。 まず、考古学資料の遺存可能性を考えましょう。 出土した土器が、まさしく「最初の」土器である可能性は、ほとんど無いと思います(きっぱり)。 今私たちが得ているのは、「神の手によって抽出されたもの」であることを自覚すべきです。 そして、時間性を考慮しましょう。 須恵器編年1型式30年と言われますが、1型式遅れて他の地域で類似した型式が成立したとき、 それは「影響」としていいのかどうか。 確かにこれも「影響」かもしれませんが、みなさんたとえば数ヶ月、1年くらいで情報が伝わる現象と一緒くたにしてませんか。 1型式たがえて情報が伝わる「影響」は、おじいちゃんが作っていた土器の形が、異なる地域でも利用されること。言ってみればもんのすごいゆっくりとした「影響」です。 情報は、必要なものであれば数日、数週間、数ヶ月、1、2年で伝わるものだと思います。すでに流通網があるわけですから。そうした物理的な情報流通時間を大幅に超えた情報の伝達の実態をイメージしない起源論、影響論は、、、、。 「じゃあ、数日から1,2年単位の影響が語れるのか?」と反論があるかもしれません。 私の答えは「考古学ではできません」。 考古学的、現象的には同じ型式に見えるでしょうし、同時期とせざるをえないものになりますから。 極論ですが、結論としては考古学に起源論、影響論はできません。 |
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須恵器30年なんて誰が考えたんでしょうね。
そんなことはないことこそ、現状できっちりおさえておくべきかと思うのですがどうでしょ? 型式変化ってそういうものかなあ。 考古学には、いろんな先入観といおうか、素朴なイメージで概念が形成されていることが多いですね。
専門用語を使ってわかったような気になるのは、私を含めて戒めておきたいです。。。 理論に関する議論は最近増えてきてますが、論理に関する議論って、ほとんどないですよね。。。 > 理論に関する議論は最近増えてきてますが、論理に関する議論って、ほとんどない
おそらく、理論の「受容」のあり方に一つの原因があるのでしょうね。 大抵の場合、理論とは「使うもの」であって、「それ自体として批判の対象になるもの」ではないし、仮に批判の対象になっても、それは「事実」をぶつけて批判する(そのこと自体は悪いわけではないけど)。結果、「理論を理論で批判する」ことはない。 そうするとどうなるかといえば、理論を理論で批判することについてのメタレベルの議論(メタ理論と呼ぶ人もいるでしょうが、こここそが「論理」のレベルといってもよいでしょう)が起こらない、という構造。 M口さんが「考古学的言説の構造」論文書かれてはや10年。状況は変わってませんなぁ さとうさん、コメントありがとうございます&東京進出おめでとうござります。
そういえば、同じようなコメントをずいぶん前にもしたような。。。。 まさしく、さとうさんがおっしゃるとおりですね。 いまだに理論を「歴史観」として個人の想念に帰属するものという理解がありますからね。。。 シンポジウムで「これ以上は、それぞれの方の歴史観によってきますから、これで置いといて」とか言われると、「いや、それを議論するのが一番大切なんちゃうのっ???」と思ってました。 そうですね。10年間、何も変わらなかったですね。。。 Mの消極的な考古学
少し悲しいですね。<論理性>への義務感(!)と信頼、そして、それを支える<環境>がなかった/ないということでしょうか。いずれにせよ<議論>の<形式性>へのコミットメントが<普通のこと>ではない環境に、楽観や余裕やダイナミズムは存在しにくいと思います。
論理的な考古学
Mさん、コメントありがとうございます。
実は今度の某研究集会は、「考古学の論理」をやってみては、、、という案も出ました。 午前は、「前方後円墳編年の論理」。 午後は、「土器編年の論理」。 どちらも、なぜこう考えたのかをつらつらと説明w で、本当に論理になっているのかを検証するという話。 流れましたが。。。。 ><議論>の<形式性>へのコミットメントが<普通のこと>ではない環境 つまり自らの立ち位置を疑わない環境ですね。 常に冷静な論理に立ち返って議論したいですね。 |
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| 直感の考古学。の日記。 |
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